どこかに行きたいなぁ〜旅行記〜

定年バックパッカー

メキシコ日記 6


夜中に目が覚める。

アメリカの馬鹿学生どもが酒を飲んで、ホテルの前の広場で騒いで いる。

怒鳴ってやろうと、窓を開けると、他の客も目を覚ましたらしく先に怒鳴られて しまった。

しかし、僕が先でなくてよかったと思う。

なにしろ、悪口のボキャブァリー が少ないから、すぐ話が終わってしまう。

怒鳴った客もアメリカ人らしく、かなり長く 怒鳴っていた。

その後はまた静かになる。

今日もいい天気である。

朝が気持ちいい。

緑を見ながら朝食と洒落こむことにする。

ソカロに面しているホテルだから、近くにカフェテラスは不自由しない。

僕が最初の客 である。

ソカロの緑を見ながら、コンチネンタルスタイルの朝食である。

ヨーロッパか らの観光客が多いせいであろう、ちゃんとコンチネンタルとメニューにある。

しばらく すると客もぱらぱら増えてくる。

それを目当てに新聞売りがやってくる。

楽器を演奏す る少年も準備を始めている。

ここのソカロにも楽器の演奏をして、チップを貰って生活 をしている人が結構いる。

昨日は、素晴らしいギターの演奏家に出会った。

かなり待っ て食事が届く。

別にイライラしなくなっている自分に気がつく。

生活のリズムがこの国 に合ってきたのであろう。

ふらふらっと老人がやって来て、テーブルの上のパンをくれ と言う。

いいよって言うと当たり前のような顔をしてもって行く。

楽器弾きの少年も音合わせが終わったようでバイオリンとギターの演奏を始める。

こりゃひどい。

音楽とい うものではない。

まだ、習い始めたばかりであろう。

しばらく笑いを堪えて聞く。

まあ 、のんびりした光景である。

朝のさわやかさがさらに気持ちがよい。

老人は早起きと言 われるが、人間を長くやっていると、自然に朝のさわやかさのありがたみが体で分かる のであろう。

部屋に戻り、荷物を整理し、チェックアウトする。

荷物はフロントに預け、昨日の旅 行社の前で集合を待つ。

時間になるとガイドがやって来て、ツァーの客を集めバスに案 内する。

客の話声を聞くと、英語、スペイン語、フランス語までは聞きとれた。

少なく とも、4カ国の混成ツァーである。

雰囲気から見るにメキシコ人はいないようである。

いたとしても2、3人のようであろう。

バスは町中を出て、山を登り始める。

急な坂道である。ガードレールがないので、ひ やひやものである。

 

30分もしないうちにモンテ・アルバン遺跡に着く。

本には丘の上 とあるが、結構高い山の上である。

ガイドの連れられて1時間ほどの説明があり、その後は自由行動となった。

しかし、説明と言うより授業という感じである。

客とガイドが 論争を始め、さらに別の客がそれに加わる。

ガイドも大変であろう。

客のほとんどが考古学に興味を持っており、専門家もいるようである。

かなり突っ込んだ話のようである。

ここはまだ完全に発掘調査が終わっていない。

ひょっとすると、金銀財宝がまだまだ 出てくる可能性があるので、ついつい発掘中のところで足が止まってしまう。

それにし ても暑い。

乾期なので空気も乾燥していて喉が乾く。

数本ある木の下に逃げ込んでいる 人も多い。

午前中に来て良かったと思う。

午後の暑さでは見学どころでないであろう。

ピラミッドの上に登ると、360度のパノラマである。

オアハカの盆地が全て見える。

色は赤茶である。風が気持ちいい。

バスを降りた所に休憩所があったのを思いだし、喉の渇きを癒しにそこに戻る。

コー ラを頼んでお金を払うと、おつりがないと言う。

2、3度要求したけれど、おつりをよこす気配がない。

他の人の様子を見ると、やっぱりおつりを貰っている気配がない。

ま ぁ、どうせ2,30円と思い、あきらめてテーブルで飲む。

ここの建物は最近できたよ うである。ここ以外に建物はない。

もし、日本にこれだけの遺跡があれば、門前町がで きるであろう。

まだまだ観光化されていないようである。

メキシコは国家事業として観 光に力を入れ始めたと聞く。

このような遺跡が各地に散らばっているのだから、きっと 成功するであろう。

建物の外に出ると、インディオのおばさん達が土産物を道に広げて売っている。

値段 を聞くとべらぼうに安い。

休憩所の中にあった土産物店も安かった。

日本で売ったとし たら10倍の値段をつけてもすぐに売り切れるであろう。

買いたいのをじっと我慢する。 黒陶のパイプだけを100円で買う。

ジュースをビニール袋に入れて売っている。

美 味しそうだが、まだ下痢をしたくないのでこれも我慢する。

結局ここに2時間ほど滞在してオアハカの町に戻る。

ソカロにある緑がオアシスのように感じた。

ビールを飲みながら昼食でもと、手近な レストランに入りテーブルに座ると隣に日本人らしい青年がビールを飲んでいる。

色が かなり黒いので、こんにちはと日本語で言うと日本語が戻ってきた。

相席になって話相 手になってもらう。

この一年南米を旅行していろいろ中米を見ながら日本に帰る途中と いう。

南米の話をいろいろ聞くことにする。

彼の話の中で特におもしろかったのは、女、 泥棒、けんかの話である。

まず女の話をすると  よく南米では若い女性と知り合いになるのである。

しばらく付き合うと当然二人になれる所に行こうと相手から誘いがかかる。

この時の決断が楽しいと言う。

先に地獄がある か、天国があるかの運命の別れ目であるからである。

地獄とは、行った場所には頑強な 男たちが待っている。

天国はみなさんが想像した事である。

いろいろ悩んでエイと決断 すると言う。

泥棒の話では  とにかく治安が悪い。

あの手この手で盗みを働く。夜などブラジルでは歩けないと言う。

あるホテルに滞在している時の話である。

そのホテルは本館と別館とに分かれていて 100Mほど離れているという。

夜遅くまで、本館で友達と酒を飲んでいて自分の部屋 がある別館に帰るときに二人組の強盗に襲われ、パンツ一つにされてしまった。

翌日は あぶないから4人で本館から別館に移ろうとすると、今度は6人組に襲われ、二日連続 で裸にされてしまったという。

強盗に襲われたらとにかく手向かってはいけないという。

命まではとらないから。

現実に手向かって殺された人間も知っているという。

けんかの話では  バーで飲んでいると日本人が珍しいものだから、話かけてくる男が多い。

一人の男と話 していると、また別の男が話しかけてくる。

すると、初めに話していた男が、この日本人は俺と話しているのだから、どこかに行けと言う。

そうすると二人の間にけんかが始 まるわけである。

どちらかがグロッキーになるまでの徹底したけんかだそうである。

仲裁しようとしても、そうなった時はもう遅いという。

その他、行って面白かった場所とか、交通面などいろいろ次は南米行きを計画している 私にとって貴重な話をしてもらった。

突然、彼がオッと声をあげた。

僕の横にはもう一人日本人が立っていた。

ふたりは以 前会った事あるようだ。

ふたりの話しを聞いていると、ブラジルで知り合ったそうである。

それから、ずっと会っていなくてまたこのオアハカで会ったのである。

二人ともこの偶然を非常に喜んでいる。

その後3人で改めて乾杯をしてまた話を始める。

この二人 に共通しているのは、小柄で痩せていて、話し方がのんびりしているという点である。

ゆっくり話すものだからなかなか話が前を向いて進まないのである。

そういえばお互い職業も名前も聞いていなかったなあという事に気がつき、自己紹介をする。

なんとこの 二人の間でもされてなかったのである。

先に会った人はデザイナーで一年の間南米を回 り、民族衣装を見て日本での服のデザインするときに参考にするそうである。

あとから の人は大学生で、日本を出て、トルコから始まり中東から東南アジアを通り、オースト ラリアから南米に渡ったという。

目的は女という。

そろそろ金がなくなったから、日本 に金を稼ぎに戻ろうかなと考えているという。

この大学生からは女の話しをたっぷり聞 いた。

確かに性格がさっぱりしているからさぞかし女にもてたろうと思う。

女の話しの時に、大学生がデザイナーの人にあの女どうなった?と尋ねる。

ふたりの話しから想像 するにデザイナーさんはチリで女に惚れられ、あなたの子供が欲しいと言われ、作って しまったそうである。

アレアレこうなると僕の価値感ではついていけない。

まあ、とに かく楽しい二人である。ふたりの会話を聞いていると???となることが多い。

たとえ ば、こうである。

大学生   今日、ドルからペソに両替したよ

デザイナー すごい。ちゃんと生活している。

大学生   ははは

デザイナー よし、僕は今日シャンプー買おう

大学生   そうそう、一日ひとつは何かしないとね もう一つ

デザイナー ホテルどんな所に泊まっている?

大学生   7000ペソで、きたない所

デザイナー ほう、安い。僕は8000ペソもする。

どこ?そのホテル。

注)1円=20ペソ

3時間くらい同じレストランで話していたようである。

もう飛行機の出発時間がせまっ ている。その事を伝えるとリッチだなぁと言われる。

さぁ、どっちがリッチか?悩むと ころである。

ホテルに帰り、荷物を受け取って、空港にタクシーで急ぐ。

タクシーの中で彼ら二人 のことを思った。

彼らはもう日本で生活できないであろうと。

 

 

 

30年前の日記の一部が見つかりました。 分けて載せています。